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【市立博物館】「館長室から」更新しました!

上にモノ申す江戸の百姓たち・完(2024年5月9日)


 今回は、前回を受けて、旗本土屋家と大谷口村の百姓たちとのせめぎあいのその後についてお話ししましょう。
 村人たちに財布のひもを握られるという状況に対して、土屋家側では反撃の手を打ちました。須藤(すどう)久三郎(きゅうざぶろう)という者を、新たに家臣として雇い入れたのです。19世紀になると、領主と家臣の関係において、同じ家の家臣が代々同じ主君に(つか)えるというかたちが(くず)れてきました。能力や財力を買われて、新規に中途採用される者が増えてきたのです。須藤久三郎も、そうした一人でした。
 須藤にすれば、せっかく採用してくれた主君に自身の能力をアピールする必要があります。当時、土屋家が抱えていた最大の難題は財政赤字でしたから、須藤はさっそくその解消に乗り出しました。しかし、そのやり方は、村人たちが提案したものとは正反対でした。須藤は、村人たちからそれまで以上に金を(しぼ)り取って土屋家の収入を増やすことで、財政赤字を解消しようとしたのです。
 当然ながら、村人たちはそれに抵抗します。すると、須藤は、村役人たちを土屋家の江戸屋敷に呼びつけて、天保(てんぽう)5年(1834)5月4日の昼過ぎから翌5日の明け方までぶっ通しで、村役人たちに出金を迫りました。その間、須藤は、村役人たちを便所(べんじょ)にも行かせませんでした。須藤こそ、多くの方が抱く武士のイメージにぴったりですが、百姓の側は言いなりになってはいませんでした。村役人たちは、(がん)として出金を拒否したのです。
 しかし、このままでは、これから先どんなひどい目に()わされるかわかりません。そこで、村役人たちは、5月5日にいっせいに雲隠(くもがく)れしてしまいました。もちろん、村人たちには潜伏(せんぷく)(さき)を知らせておきました。そして、8月に、土屋家の親類たちに、須藤を土屋家から追放してほしいという嘆願書(たんがんしょ)を提出しました。天保4年(1833)の駕籠訴(かごそ)のときと同様、親類たちから土屋家当主を説得してもらおうという戦術です。ただ、今回は前回のようにはうまくいかなかったため、村役人たちは、天保8年(1837)に、再度親類たちに須藤の罷免(ひめん)を求めました。その後、須藤の名は文書に出てこないので、罷免は実現したと思われます。もはや、「百姓は(おど)せば言うことを聞く」といった考えが通用する余地はなくなっていました。逆に、百姓が武士を辞めさせる時代になっていたのです。
 ただし、須藤がいなくなっても、土屋家の財政状況が好転したわけではありません。以後も、土屋家から領地の村々への借金の申し込みは続きました。村々の側でも、殿様からの頼みということで、100パーセント拒否することはできませんでした。村役人たちが土屋家の財政を管理しているといっても、頼まれればある程度財布のひもを(ゆる)めざるを得なかったのです。けれども、もはや村人たちは土屋家の言いなりになってはいませんでした。自分たちが許容できる範囲内で、主体的に土屋家の要求に対応していたのです。こうして、土屋家と領地の村々の村人たちとのせめぎあいは幕末まで続きました。
 以上、土屋家と領民の事例から、江戸時代後期における武士と百姓の関係の実態をみてきました。そこからは、百姓たちが領主に対してしっかりと自己主張し、領主財政のあり方を規定(きてい)するまでに力をつけてきたことが見えてきます。
こうしたあり方は、旗本(はたもと)という小規模領主だからこそ、典型的に表れたという側面はあります。しかし、幕府領でも大名領でも、お上に「モノ申す」百姓が増えてきた点は共通していました。幕末に向けて、百姓たちは江戸時代の主人公としての実質をますます強化していったのです。(完)

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